自分らしくいることができるのは家族のサポートがあったから
※紹介した体験談は患者さんが経験された経過の一部を紹介したもので、すべての患者さんが同様の結果を示すものではありません
診断を受けたのは小学校1年生のとき、自分ではまったく意識していなかった

幼いころの私は、母から「ここで待っていてね」と言われても、興味のあることを見つけるとそこにまっしぐらに向かってしまうような、落ち着きがなく待っていることができない子どもだったそうです。また、母と買い物に行った先でおもちゃの付いているお菓子を見つけると、店頭に並んでいる状態にもかかわらず、片っ端からその箱を開けてしまうようなこともあったと聞きました。

ADHD(注意欠如多動症)と診断を受けたのは小学校1年生で、そのとき母から「あなたはADHD(注意欠如多動症)を持っていて、不得意なことをカバーするために色々と気を付けなければならないのよ」と聞かされました。しかし、その当時私が感じていたのは、勉強を含め、集団でこれをしましょうというときに、人よりやる気が起きなかったことくらいです。私にとって、それが普通のことでしたので、「気を付けなければならないこと」の意味がよく理解できず、ADHD(注意欠如多動症)ということを意識せずにやりたいことをやってきました。

担任の先生は、落ち着きのない私を常に気にかけてくれていました。班行動では他の班に気を取られてしまう私のために、先生が私とずっと一緒にいてくれたこともあります。低学年の途中で、学校教育法の改正によってADHD(注意欠如多動症)など発達障害を持つ子どもたちは、その子の個性にあった支援を受けられるようになりました。私は授業中でも何か気になることがあると教室を出て行ってしまうため、1対1の落ち着いた環境で勉強できるように学習面でもサポートしてもらいました。中学校ではバスケットボール部に入りましたが、ここでも部活動の顧問の先生は集中が続かない私の特性をよく理解してくれており、集中が途切れないよう非常にこまめに指示を出してくれたおかげで、試合にも出場できるなど、楽しく部活動ができました。学校には保健室とは別に特別支援学級がありましたが、私は学習面でそこに入る対象ではなかったそうです。しかし、担任や特別支援学級の先生から、ずっと座っていることが難しいときは来てもよいと声をかけていただきました。そこで授業が長くてつらいと感じたときには度々訪れて、リラックスして話をするなど、楽しく学校生活を送ることができました。

何かの拍子にかんしゃくを起こして友だちとトラブルになることもありましたが、大人になるにつれてイライラする自分に気が付いて、我慢できるようになりました。こうしたことから対人関係のトラブルは減っていき、母の言っていた「気を付けなければならないこと」とはこういうことだったのかと理解しました。

特別扱いしない環境が今の自分に良い影響を与えてくれた

私には二人の姉がいます。母は私がADHD(注意欠如多動症)と診断を受けるとすぐに姉たちにもそれを伝え、小学校での私の様子を聞いていたそうです。姉から「上履きのままで校庭の砂場に出て、一人で遊んでいたよ」などと聞き、診察のときにはそのことを主治医の先生に伝えていたということです。

ADHD(注意欠如多動症)と知りながらも治療を受けているという自覚はなく、病院へは日々の話を聞いてもらいに行っているような気持ちでした。主治医の先生はとても話しやすい方で、話をした後には非常にスッキリしている自分に気付きました。考えてみると、日頃のストレス発散の場にしていたのかもしれません。今でもとても親身に話を聞いてくださり、私の考えや思いを意識的に引き出して適切な治療につなげてくださっているのだと思います。

病院以外でも、私の特性を理解し、日々の出来事を聞いてくれる小学生からの友だちが数名います。彼らは、私がかんしゃくを起こしそうになっても率直に指摘をしてくれます。小学生のときには、衝動的に動いて孤立しそうになる私を気遣ってくれたり、学校で次に何をすれば良いかを教えてくれたりと助けてもらいました。同様に二人の姉も、私がADHD(注意欠如多動症)だからいたわらなければならないというような意識はなく、言いたいことを言い、ときには喧嘩もします。私がかんしゃくを起こさないよう非常に気を使っていた母とは反対に、姉たちは腫れ物に触るように接することは本人を否定してしまうので、しっかりと向き合って言葉で伝えてあげることが大事と考えていたのではないかと思います。友人や家族が思ったことをはっきりと言ってくれる環境にあったからこそ、社会に出て職場の人から指摘を受けても、しっかりと受け止めることができているのだと思い感謝しています。

信頼できる方々の支えを糧に、できることを積み重ねていく

特別支援学級の先生から「体が大きく、優しい性格をしているので、福祉・介護系に進んでみては」と勧められたことで、福祉科のある高校を目指しました。受験勉強を始めたころは、学校の勉強についていけていない状態だったので焦りを感じました。しかし、特別支援学級の先生が集中力さえカバーできれば合格できるのではないかとアドバイスしてくださるなど、支えてくれる方々の励ましのおかげで無事に高校に進むことができました。

現在、私は介護福祉士という職業に就いています。就職するにあたって主治医の先生に十分な服薬指導をしていただき、夜勤を含めて就業は問題ないと言っていただいたため、一般の枠で就職をしました。

初めのころは、主治医の先生からのアドバイスもありADHD(注意欠如多動症)であることや薬を服用していることは勤務先に特に伝えてはいませんでした。しかし、就業中に定期的な服用をしていることを心配した上司に「無理をしていませんか?」と言われたため、集中力を保つための薬を服用していることを話したところ、業務に慣れるまでは夜勤を免除してくれることになりました。職場に話したことで上司や同僚も私の特性に理解を示し、適宜適切な指示を出してくれるようになったため、より安心して仕事をすることができるようになりました。そのおかげもあって、2年目からは夜間勤務も任されるようになり、幅広く、着実に業務をこなせるようになっていきました。ときには、勤務後に帰ろうとすると、利用者の方から「帰らないで」と泣かれてしまうことなどもあり、多くの人に必要とされていることをとてもありがたく感じています。

問診の様子

社会人になって6年が経ちました。学生のときには突発的な行動で相手と衝突することもありましたが、治療の成果もあり、また自分自身の特性を理解できるようになったことから、気持ちを切り替えたり抑えたりすることが上手になりました。信頼できる家族や友人、職場の方々の支えを糧にして、自分ができることを積み重ねていけばきっと良い方向に進めると思っています。

主治医のアドバイスによる肯定的な気付き

3歳ごろから落ち着きのなさが出始め、思いついたままに行動してしまうために友だちとよく衝突していました。家に帰ってから事情を聞くと、怒りで頭に血が上って、突発的に体を壁にぶつけるなど自分を傷つけてしまうことも少なからずありました。3歳時健診のときに、対人関係やコミュニケーションの部分で落ち着きのなさや、かんしゃくについて相談したところ、半年に1回程度、児童相談所を通して経過観察をすることとなりました。しかし、定期的に様子をみてもらってはいたものの、周囲の方々に迷惑をかけているという思いが強く、「どこで育て方を間違えたんだろう」と非常に悩んでいました。医療機関を受診しようと思ったきっかけは、小学校入学時から、他の子どもたちと集団登校ができず、すぐに列からはみ出して姿が見えなくなってしまうなど、やはり特別な性質があるのだろうと感じたためです。児童相談所の先生に現在の主治医の先生を紹介していただき、小学校1年生でADHD(注意欠如多動症)との診断を受けました。それまでずっと悩んできましたが、主治医の先生に「お母さんのせいではありませんよ」と言われたときには、負担から解放された気持ちになりました。また、先生から「子どもが靴一つ履いても褒めてあげて」と言われたことがとても印象的でした。これまで、子どもの困った行動ばかりが目についてしまい、褒められることなどないと思い込んでいましたが、そんな些細なことを褒めていいんだと気付けたことで、子どもの行動を肯定的に受け入れ、接し方も変わっていきました。子ども自身は、ADHD(注意欠如多動症)と意識することはなく自然体で生きていたので、接し方が変わって特別な変化というものはないようでしたが、とにかく私自身の心の余裕ができたことが非常に大きかったと感じます。

必要な支援を受けることで、前向きな未来につながっていく

私自身が保育士をしていることから、神経発達症のお子さんを持つ保護者の方々から話を聞く機会は少なくありません。診断について納得した方、受け入れることができた方は子どもの成長にあわせて必要な支援を受け、次のステップに進むことができているように思います。たとえ、子どもとの生活で悩むことがあっても、専門家に相談しながら特性を理解し、受け入れることで前向きな未来につながっていくものと私自身は実感しています。

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監修

医療法人南風会万葉クリニック 子どものこころセンター絆 センター長 飯田 順三 先生